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第118回学術集会(平成21年11月7日(土),8日(日))
【特別講演】
赤ちゃんはどこからくるの
栗田 博之
東京外国語大学大学院総合国際学研究院
「赤ちゃんはどこから来るの?」は人類にとって長らく謎であった.顕微鏡の発明によって精子・卵子が発見され,それに続いて,受精,胚の形成,着床,胎盤の形成,胎児の成長といった基本的メカニズムが明らかになったのはそう古い事ではない.しかし,男性と女性が性関係を持つ事によって初めて「赤ちゃんが出来る」という点はずっと昔から知られていたようである.つまり,性交と妊娠の因果関係は昔から知られていたが,性交と妊娠がどのようなメカニズムで結び付いているのかは近代科学が発達するまでずっと分からなかったという事なのである.実際,社会の再生産は男女が性関係を持つ事によって保障されて来たのであり,男女が性関係を持つ事によってのみ「赤ちゃんが出来る」事は人類誰もが知る「常識」のはずである.人類学者も当然そのように考えていた.しかし,世界中の様々な社会を調べて行く内に,この常識が通用しない社会が存在するという驚くべき報告が寄せられた.オーストラリア・アボリジニの社会やメラネシアのトロブリアンド諸島民の社会を調査した人類学者が,人々は性交と妊娠の生理学的因果関係を知らないと報告したのである.例えば,20世紀初頭にトロブリアンド諸島民の間で人類学的現地調査を行ったマリノフスキーによれば,人々は「生物学的父子関係」を認めていない,「生物学的母子関係」は漠然と認められているが,子供が出来ることに父親は関与しない,何らかの霊が妊娠を引き起こす,と考えているのだそうである.従って,トロブリアンド諸島民の間では,「父親」という存在は「母親の夫」に過ぎない事になる.このような報告を聞いて,そんな民族も地球上にいるのか,確かに母親から子供は生まれてくるから母子関係はすぐに分かるだろうが,生理学を知らなければ,妊娠に関する父親の役割というのはなかなか分からないかもしれないな,といった感想を持つのが普通であろう.しかし,事はそれでは終わらない.この報告は,我々が地球上どこでも当たり前に通用すると思っている「父母と子」という社会的再生産の基本ユニットが認定されていない社会が存在するという事を示しているのである.これは大事である.そのため,この報告の真偽を巡って,人類学者の間で「処女懐胎論争」と呼ばれる激しい論争が巻き起こった.最終的には,これらの社会でも実は性交と妊娠の生理学的因果関係が知られているらしいという事で,論争は一応の決着を見た.しかしながら,今度は,新生殖技術の発達によって,「父母と子」という基本的ユニットの方が揺らぎつつある.「赤ちゃんはどこから来るの?」は既に謎ではなくなったが,謎が解かれた事によって,我々は新生殖技術を巡る新たな社会関係をどのように構築するかという難題を解かねばならなくなったのである.
日本産科婦人科学会関東連合地方部会会誌, 46(3)
236-236, 2009
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